ここ数年、ホテルのオープンラッシュが続いているが、そんななかでもアート、建築好きがこぞって足を運んでいるのが、2020年12月、群馬県前橋市に開業した『白井屋ホテル』だ。前橋出身で、アイウエアブランド『JINS』創業者の田中仁氏が、2008年に廃業した300年以上の歴史を持つホテルを買取り、建築家の藤本壮介氏が大幅にリノベーション。世界的なアーティストが集結し、世界でも類を見ない“泊まることができる”アートデスティネーションを誕生させた。今回は、社長の矢村功氏の言葉を交えながら『白井屋ホテル』の見どころを紹介する。
※掲載の情報は2021年8月時点のものです。サービス内容など一部変更がございますので、予めご了承ください(2023年4月時点)。
世界的アーティスト達が手がけた美術館のような客室
『白井屋ホテル』は、1970年代竣工の4階建ての建物を、建築家の藤本壮介氏が大胆にリノベーションしたヘリテージタワーと、同じく藤本氏の設計で、利根川の旧河川の土手をイメージして新築されたグリーンタワーの2棟で構成される。客室数は25(うち4室はスペシャルルーム)。それぞれ別のアートが配されており、2つとして同じ部屋はない。
文字どおり、アートデスティネーションだ。エントランスからロビーなどの公共スペースも、各部屋もアートがあふれている。ホテルのファサードには、前橋の地域性をモチーフにした、コンセプチュアルアーティスト・ローレンス・ウィナー氏のポップなアートが誇らしげに掲げられている。
ホテル内には、金沢21世紀美術館の『スイミング・プール』の作者として知られる、アルゼンチンの作家・レアンドロ・エルリッヒ氏による巨大なインスタレーション“ライティング・パイプ”が、水道の配管のように張り巡らされている。
レアンドロ氏、藤本氏、イタリアの建築家・ミケーレ・デ・ルッキ氏、ロンドンのプロダクトデザイナー、ジャスパー・モリソン氏がそれぞれひとつの客室を手がけたスペシャルルームもある。世界にひとつの作品に滞在できるのは、アーティストのファンにとっては望外の喜びだろう。
「地元のアーティストの方にぜひ活躍していただきたいという思いがあり、群馬を拠点にしているアーティストが手がけた客室も8室あります」(矢村氏)
そのほか、公共スペースには、杉本博司氏、安東陽子氏、リアム・ギリック氏、武田鉄平氏の作品も。グリーンタワー頂上には、宮島達男氏の作品が設置された小屋がある。こちらの中は、宿泊客のみ鑑賞できる。アートを前面に打つ出すホテルは多いが、これほどどこもかしこもアートに満たされているホテルはなかなかない。
生まれ変わった『白井屋旅館』
ほかにも紹介したいアートはあるのだが、それだけで文字数が尽きてしまいそうなので、ここで『白井屋ホテル』の歴史について簡単に紹介しよう。前身となる『白井屋旅館』が創業したのは約300年前。江戸時代にさかのぼる。かつては森鴎外や乃木希典など多くの芸術家や著名人が投宿。戦時中は出陣を控えた特攻隊員が、家族と最後の夜を過ごす宿でもあった。1975年にホテル業態に変更したが年を追うごとに、前橋の中心市街地は衰退。2008年には廃業を余儀なくされた。
オーナーは、アイウエアブランド『JINS』創業者で、前橋出身の田中仁氏だ。都内のデベロッパーが『白井屋ホテル』跡地の購入を考えていると聞いた田中氏は、男気を見せ『白井屋ホテル』の建物を土地ごと購入。当初は、運営は別会社に投げるつもりだったが、今やシャッター商店街の前橋でホテルを運営するのは難しい、どうやって採算をとるのかと、誰も首を縦に振らなかったという。田中氏は「それならば自分でやる」と、助成金は一切申請せず、『白井屋ホテル』を再生させることを決意する。「私たちがホテルを運営する最大の目的は、前橋の地域活性化です。まちと共にあるという意識は、すべてのスタッフが持っています」と矢村氏は言う。
自身でホテルを手がけることを決めた田中氏が、まず声をかけたのは今や世界的建築家となった藤本壮介氏だった。まだ無名だった時代に、藤本氏は、田中氏の実兄の邸宅を設計している。田中氏は『JINS』の仕事で交流のあったモリソン氏やデ・ルッキ氏にも声をかけた。2人は、「前橋にかつての活気を取り戻したい」という田中氏の思いに共感し、実際に前橋まで足を運び、無償で客室をデザインした。
レアンドロ氏とは、知人の紹介で、プロジェクト始動後に知り合った。田中氏が前橋でホテルを作っていることを明かすと、「ぜひ見てみたい」と、その翌週には前橋にやってきたという。ヘリテージタワーは、藤本氏の発案で、4階建ての旧ホテルの中心部をくりぬき、天窓を開けている。レアンドロ氏がやってきたのは、その工事の真っ最中。スケルトンになった空間を見た彼は、かつてそこにあったであろう配管・電線管に思いを馳せ、“ライティング・パイプ”を製作した。
吹き抜けの回廊のような階段を使えるのは宿泊のゲストの特権だ。ライティング・パイプは時間ごとに表情を異にし、夜はさまざまな色にライティングされる。ぜひ時間を変えてこの空間に身を置くことをおすすめしたい。
ここでしか味わうことのできない“体験”
食の面でも期待を裏切らない、いや期待以上だと思う。メインダイニング『the RESTAURANT』は、ミシュラン2つ星に輝く『フロリレージュ』のオーナーシェフ・川手寛康氏に監修を依頼している。実際に厨房で腕を振るっているのは、群馬県出身の片山ひろ氏だ。
「片山は、フロリレージュはもちろんのこと、川手さんが懇意にされているシェフのもとでも研修を受けています。郷土の食材をいかすだけでなく、それをグローバルな皿に再構築するプロセスがとても面白く、それが彼の強みだと思っています」
隣接する『the LOUNGE』のコンセプトは“まちのリビング”だ。矢村氏は、「気軽にお越しいただき、空間やアートを楽しみながら、驚きに満ちた食体験をお届けしたい」と語る。
「未知なるものをいただくわくわくを提供するのがthe RESTAURANTなら、the LOUNGEでは、日常のなかのちょっと新しいもの、もう少し気軽なわくわくを体感していただきたいと考えています」
30センチ弱のエビフライがモダンにしつらえ登場するエビフライや、赤城牛のすね肉を赤ワインや独自のスパイスと共に3日間煮込んだカレーなど、なじみのあるメニューを心躍るものに仕立てている。アルテック、マルニ木工、カッシーナ、アルテミデなどのチェアやソファー、照明器具が随所に配されているのも楽しい。
オープン前には、近隣の商店街を招待し、ランチをふるまった。
「みなさん、おめかししてお越しいただき、楽しんでくださいました」
『the LOUNGE』は現在、多くの地元の人でにぎわっている。『the RESTAURANT』に定期的に通う常連も増えたという。
「少しずつ前橋のみなさんに、私たちの存在が広まっていると実感しています。まちを歩いていると、地元の方に必ず声をかけられます(笑)。野菜をもらうという経験も、東京ではないことでした」
「前橋にはなんの縁もなかった」という矢村氏だが、存分に前橋での生活を謳歌しているようだ。
「東京の人が思う以上に、前橋は東京に近いんですよ(笑)」
貸切制のフィンランドサウナとミストサウナも人気だ。グリーンタワーの中腹で上州の山々を臨みながら、はたまた宮島達男氏のアート部屋の前での外気浴はサウナー垂涎、『白井屋ホテル』でしか味わうことのできないとっておきのサウナ体験だ。
『白井屋ホテル』は、いまも深化を続けている。オープンから間もなくして、現代美術作家の杉本博司と建築家の榊田倫之による新素材研究所の設計による特別個室『真茶亭』が完成した。2月には、敷地内に、前橋初の本格的フルーツタルトの専門店『SHIROIYA the PÂTISSERIE(白井屋 ザ・パティスリー)』をオープン。9月末には『ブルーボトルコーヒー 白井屋カフェ』が開業する予定だ。
「田中も、私もまだまだやりたいことはたくさんあります」と、矢村氏は楽しそうに語る。
そこにいるだけで心地よく、創造性をかきたてられる場所
まだまだ紹介しきれていないところはいくつもある。一度や二度行っただけでは味わいつくせない、でもその後ろ髪をひかれる感覚がまた楽しい、そんな空間だ。現時点で、世界でただひとり、25室すべての客室に泊まった経験を持つ矢村氏に、おすすめの過ごし方を聞いてみた。
「ゆっくりと時間をかけて味わっていただきたいです。アートひとつとっても、ここにあるアートは、美術館の白い壁にかけられた絵とは違います。自然光も入ってくるし、時間の変化、天気によっても雰囲気が変わってきます。客室は貸切のギャラリーのようなもの。いろいろな楽しみ方があります。寝そべって眺めるのもいいと思います。料理にしてもアートにしても人間の想像力、風土が生み出したもの。五感のすべてを使って、白井屋ホテルという空間を味わってほしいです」
矢村氏によれば、開業当初、ゲストは、建築やアートに詳しい人が大多数を占めたが、ここ最近は新しい刺激を受けたいという、よりカジュアルなゲストも増えているという。
「宿泊された方がご希望された場合は、スタッフによる館内のアートツアーにご案内します。ツアーを担当するスタッフの肌感覚では、最近は杉本氏や、レアンドロ氏のことをご存じない方も増えているとか。徐々に裾野が広がっていると感じています」
なるほど、たしかにアート好きはもちろん、とりたててアートに造詣が深くなくても、そこに身を置くこと自体がなんだか楽しく、なんだか心地いい、そして、創造性をかきたてられる、ここはそんな場所かもしれない。
ところで、矢村氏の、『白井屋ホテル』のお気に入りの場所はどこなのだろう? 最後にふと気になって尋ねてみた。
「まだ日が少し残っていて、闇に包まれる直前のラウンジです。ライティング・パイプの照明の色が変わり、オレンジの光に照らされる空間はとても幻想的です」
十人十色、その答えはみな違うだろう。そして、自分でその答えを探すのも、ほかの誰かのお気に入りを聞くのもきっと楽しい。その答えを探しに、一度、足を運んでみてはいかがだろうか。
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Text: | 長谷川あや |
Photo: | 大石隼土 |