2021.12.2
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伝説のレーシングチーム『アウトデルタ』でアルフェッタ GTVを操り、欧州各地のサーキットを荒らし回ったというアメリゴ・ビリアッツィ氏。TVやラジオをはじめ、自動車メディアでもおなじみのイタリア在住のコラムニスト・大矢アキオ氏がアメリゴ氏にインタビュー。レーサー時代からアルファ ロメオの認定サービス工場を営む現在に至るまで、アルファ ロメオとともに歩んだという人生を振り返ってもらった。

アルファ ロメオ史に関心がある人なら、ゆかりの人物といえば創立者ニコラ・ロメオ、名設計者ヴィットリオ・ヤーノ、そしてグランプリ・レース時代のタツィオ・ヌヴォラーリなどを真っ先に思い浮かべることだろう。しかしイタリアでは、アルファ ロメオと人生を歩んだ人物と、意外な場所で出くわすことがある。伝説のレーシングチーム『アウトデルタ』でアルフェッタ GTVを操り、欧州各地のサーキットを荒らし回ったアメリゴ・ビリアッツィもその一人だ。

ダンテ『神曲 地獄篇』の村で

筆者が住むイタリア中部シエナのアルファ ロメオ販売店でのこと。ある日ショールームを訪れると、ツナギを着た老紳士が入れ違いに出ていった。この地方都市で、自動車ディーラー業界は広いようで狭い。皆、近くに来たついでに顔を出し合うのが常なのだ。中に入ると長年知り合いのセールスパーソンが筆者に言った。
「今、お前がすれ違った彼はレジェンドだぞ。紹介するから一度訪ねてみるといい」

後日、彼から教わったツナギの老紳士の活動拠点を訪ねてみることにした。シエナの隣村であるモンテリッジョーニは、かのダンテ・アリギエーリが『神曲 地獄篇』のなかで詠んだ城塞で知られる。その小さな村の、さらに人口僅か500人程度の地区にあるアルファ ロメオの認定サービス工場だった。

中に入ると、他のサービス工場と明らかに違っていた。近年のモデルに混じって、古いアルファ ロメオが何台も置かれている。さらに見上げると、中2階には、ガラス越しに無数のトロフィーが並べられているのが確認できた。筆者がこれまでに何度となく走った道の、気にとめることもなかったサービス工場の内部に、このような光景が展開されていたとは。

01 コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ
▲アメリゴ・ビリアッツィ(左から2番目)と、彼が営むアルファ ロメオ認定サービス工場のスタッフ。車両はアルファ・リバイバル・カップ用のマシンであるアルフェッタ GTV。

02-giulietta コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ
▲レストア中の2台。1959年アルファ ロメオ ジュリエッタTIと1967年GT ヴェローチェ。後者はアメリゴの新人レーサー時代を支えた思い出深いモデルである。

やがて先日の老紳士が迎えてくれた。彼の名はアメリゴ・ビリアッツィ。サーキットでは“ジョー”のニックネームももつ。
第二次大戦中の1942年、シエナ県の農家に生まれたアメリゴ(地元の自動車エンスージアストたちによる、親しみを込めた呼称にしたがおう)は、戦後14歳で修理工見習いとして働き始めた。
「その工場が、アルファ ロメオのサービス工場だったんだ」
当時のアルファ ロメオは、超高級車メーカーから高性能量産車ブランドに転換を図ったばかりだった。スピードの魅力に取り憑かれたアメリゴは、毎週末のように地元の草レースにチャレンジするようになっていった。「もちろん親には内緒でね」と彼は笑う。

03-1964 コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ
▲スクアドラ・ピロ―ティ・セネージの選手として22歳で出場した第3回ラリー・デル・キャンティにて。1964年9月。

やがて、勤務先の親方から提供されたアルファ ロメオ ジュリア スプリントGTAを駆り、トスカーナ州アレッツォのレースで優勝する。
テクニックを磨いたアメリゴは29歳だった1971年、同じくジュリア スプリントGTAを操縦してコッパ・インテル・ヨーロッパに出場。初の国際級レース・デビューを果たした。
翌年は1300 GTAジュニアに乗り換えてモンツァ4時間レースに挑戦。そのときは惜しくもリタイアに終わったが、翌73年からはイタリア北部および中部を舞台にしたラリー『ジーロ・アウトモビリスティコ・ディタリア』に、地元シエナのプライベート・チームから参戦を開始した。「GTAはアルファ ロメオにとって、最も重要なモデルの1台だと思う」とアメリゴは振り返る。

04-GTA コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ
▲ジュリア スプリントGTAは、アメリゴが国際級レースに打って出るきっかけとなった。

74年からは、のちにアメリゴを伝説たらしめたアルフェッタ GTVに乗り換えた。
トランスアクスルによる理想的な重量配分と、コンペティションカー譲りのド・ディオン・アクスルによる操縦性にたちまち惚れ込んだ。そして最終的にジーロで3年連続の完走をアメリゴにもたらした。

76年、34歳の年にはフィレンツェのプライベートチーム『アウトヴァーマ』(母体は、今日でもアルファ ロメオ販売店として存在している)のドライバーとしてアルフェッタ GTVでヨーロピアン・ツーリングカー選手権(ETCC)の選手となった。ヨーロッパ各地で上位入賞を繰り返し、年間4位という輝かしい戦績を残した。
「もっとも難しいのは、距離が長いニュルブルクリンクだったな」とアメリゴは振り返る。
傍らで同じく欧州各地の耐久レースでも戦い、76年9月に開催された『ヴァッレルンガ500kmレース』では見事総合優勝に輝いた。

05-podio コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ

▲アルフェッタ GTVと出会ったアメリゴは、欧州各地のサーキットで次々と上位入賞を果たす。1975年、ミサーノの『トロフェオ・デイ・ミッレ』で。

06-Autovama コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ
▲1976年ヴァラーノ・サーキットで。コーナーで果敢にフランス車のライバルをリードする。

アウトデルタのレーサーに

そして翌77年、ついに伝説のアルファ ロメオ・レーシングチーム『アウトデルタ』のドライバーに選ばれる。
「ミラノまで自分のアルフェッタ GTVを運転してゆき、そのまま技能テストを受けたよ」とアメリゴは語る。参考までにアメリゴによると、当時はナンバープレートを付けたままファクトリーに向かって競技用のさまざまな装備やパーツを装着。またレース終了終後も、そのままマシンを操縦して帰ることがたびたびあったという。映画『男と女』の主人公が、モンテカルロ・ラリーに参加したあとそのままその車で帰ってゆくシーンを彷彿とさせる話だ。

07 コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ

▲ある年のマシン。フィレンツェを示すFIのナンバーが装着されたままであるのに注目。

アウトデルタのドライバーとして参戦した77年7月のベルギー『スパ・フランコルシャン24時間レース』では、総合4位という好成績を記録した。

その後アウトヴァーマに戻ってからも、アルフェッタ GTVを操縦。モンツァ4時間、ETCCで上位入賞を続けた。79年からはミラノのプライベート・チーム『ジョリークラブ』でアルファスッドのステアリングを握り、モンツァ4時間レースなどで戦った。83年には再びアルフェッタ GTVでスパ24時間に挑戦し、8位に入賞する。

08Jarama コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ
▲1976年、ETCCハラマ(スペイン)戦での奮闘を伝える新聞。「ビリアッツィと(チームメイトのスパルタコ・)ディーニが主役」の見出しが躍る。

09 コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ
▲モンツァ4時間レースでの勇姿。1978年3月。

10 コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ
▲1982年、サンマリノ戦でアルファスッド スプリントを操るアメリゴ。

アルファ ロメオとともに65年

2002年に独立し、今日まで続くアルファ ロメオ指定サービス工場を開業したアメリゴは、ヒストリックカーのほか、モダンカーのメンテナンスに携わっている。一般ユーザーに混じって各種警察車両のアルファ ロメオも持ち込まれるのは、アメリゴの腕が評価されている証である。

ただし、アメリゴがサーキットから足を洗ったわけではない。ACI(イタリア自動車クラブ)公認の『アルファ ロメオ・リバイバル・カップ』をはじめとする著名ヒストリックカー・レースに挑戦を続けてきた。そのために工場裏にはエンジン用のテストベンチを設けているほか、アウトデルタ時代スパ24時間で戦った盟友カルロ・ファチェッティとチューンに励んでいる。
日頃彼のもとでメカニックとして働き、週末はサーキットでサポートするスタッフはアメリゴを「普段は極めて温厚だけど、一旦コースでステアリングを握ると、性格が豹変するんだ」と言って笑った。

11 コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ
▲アメリゴがアルファ ロメオ・リバイバル・カップで操っているGTVのコクピット。その日はちょうど前日のレースから戻ってきたばかりだった。

12 コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ
▲フロントフェンダーには、アメリゴとチームメイトであるブルーノ・マッツォーリの名前が並ぶ。

13 コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ
▲アルフェッタ GTVは、47年にわたり親しんだマシンである。

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▲工場裏に設けられたバンコ・ディ・プローヴァ(テストベンチ)にて入念なチューンを施すアメリゴ。

15 コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ
▲アメリゴと彼のアルフェッタ GTVは、今も毎週末のようにサーキットへと旅立つ。

工場の中、前述した中2階への階段を辿る。踊り場には、アルフィスタなら垂涎ものであろう1960-80年代のアルファ ロメオの取り扱い説明書が、いとも無造作に埃を被って積み重ねられている。室内に置かれたトロフィー類もしかり。年代もレースのカテゴリーも分類されていない。
雇われ整備士時代から今日まで、年間を通じて平日は整備工場、休日はサーキットを舞台に人生を駆け抜けてきたアメリゴである。過去のアイテムを整理する時間などなかったのに違いない。

16 コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ
▲中2階に向かう階段で。

17 コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ
▲往年のアルファ ロメオの取り扱い説明書。

18 コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ
▲仕事の用事はもちろん、昔の仲間からも頻繁に携帯電話に連絡が入る。

人生の大半である65年をアルファ ロメオと歩んだアメリゴは「私の仕事人生の始まりであったとともに、私のレース歴をより輝いたものにし、常に喜びを与えてくれたブランドだ」と振り返る。
79歳を迎えた2021年も、古巣であるチーム『スクアドラ・ピローティ・セネージ』の選手としてFIA(国際自動車連盟)の公式ヒストリック・ヒルクライム『コッパ・デル・キャンティ・クラシコ』をはじめ、各地での競技に長年操縦し慣れたアルフェッタ GTVで果敢に参戦した。
前述のアルファ ロメオ・リバイバルカップでもコ・ドライバーとともに奮闘。6月のミサーノではクラス1位、10月のモンツァでは総合6位を獲得した。
なぜ、挑戦し続けるのか? 筆者がそう聞くとアメリゴは、「自分でもわからない。うなされたようなものさ」と言って笑ったあと、「恐らく中から湧き出るパッシオーネ(情熱)が駆り立てるんだろうね」と続けた。ただし、こうも断言する。
「結果が出せなくなったら、引退するさ」
ヒーローは潔い。

夕方になるとアメリゴの工場には、若き日の草レース仲間が、たとえ用はなくてもアメリゴを慕ってやってくる。そのたび彼は、仕事をしながら自動車やサーキット談義に花を咲かせる。
本場イタリアでアルファ ロメオは、彼のような熱く穏やかなヒーローによって支えられているのである。

19 コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ
▲アメリゴはリバイバル・レースのスターだ。さまざまなサーキットでの車検通過パスがウィンドーを飾る。

20 コラムニスト・大矢アキオ氏がインタビュー。伝説のアルフェッタ GTVレーサー、アメリゴ・ビリアッツィ
▲「アルファ ロメオは、私に喜びを与えてくれたブランド」とアメリゴは語る。

Text: 大矢アキオ(Akio Lorenzo OYA)
Photo: 大矢アキオ(Akio Lorenzo OYA)、Archivio Bigliazzi

Profile

大矢アキオ Akio Lorenzo OYA

コラムニスト/イタリア文化コメンテーター。音大でヴァイオリンを専攻、大学院で比較芸術学を修める。イタリア中部シエナ在住。NHK語学テキストなど雑誌&web連載に加え、NHK『ラジオ深夜便』には現地レポーターとして長年にわたり出演中。著書・訳書多数。

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